人生に、意味を求めるな
好悪
わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである
我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない
唯我我の好悪である
或は我我の快不快である
そうとしかわたしには考えられない
ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか?
救うことを快とするからである
では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう?
より大きい快を選んだのである
しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である
いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない
寧ろ鹹水と淡水とのように、一つに融け合っているものである
・・・
賢人とは畢竟荊蕀の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである
-侏儒の言葉より
平静と共に、いつものように、誰かの声をきいている
いつもの自分と、何も変わらないで
静かに、いるだけのことが難しい日もある
なんだかんだと言っても
希望がなければ、とても生きられないのだ
わかっているようなつもりでも、
いざ、目の前に立って、ようやく、初めて
自分は何もわかっていなかったのだと気付くんだろう
嘆くのは簡単だ
いつだって前に進もうとすることは、難しい
もう何もない、という所まで行き着いて
こんな所は嫌だという所に、辿りついて
その中で、更に光をみつけることは、やはり難しい
その為に、最善を尽くしたい
もう、祈るより他はない
そういう所まで自分をもっていって初めて
いや、おそらく、それは間違っている
少なくとも、望んでいない
正しいかもしれないが、求められていない
きっと、自分に耐える、強さがないのだろう
要らぬその心を失いたいと思うこともある
祝福されていない、洞察力など、苦しめるだけである、勿論、自分を
鈍感で、省みない、前をみる、それだけでよかった
それがよかった
手に余る、心である
それでおしまいなのだから
ただ、そうであるだけなのだから
使い道なんてない、それによって生きる道なんてない、その居場所もみつからない
何もない、そこから先に
人生に、意味なんて求めるな
こんなのってないよなんて、思うけど
きっとそれがいつかなんて、思うけど
そんなの希望にすらならない
努力でどうにかなることもあれば、どうにもならないこともある
どうにもならないものを、どうにかしたいと思ってしまったのなら、諦めるしかない
なるようにしかならない
生まれ落ちた偶然に、意味なんてない
もしあったら、少しは救われるかもしれないけど、そんなものはない
そこを誤魔化さない
ただ、あるがままでしかない、すべてに、意味をそえて、生きていったらいい
- Posted by at : 2009.5.31 | Comments [0]
- Category: [Crypin Story]
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