後悔していることをあげはじめたらきりがないが、そんな数多ある
けっして消化しきれない後悔の森の中でも、かならず見つけ出せる一つの木がある。
小学校の時、2年間ならったピアノをやめてしまったことである。
はじめた経緯はおぼえていない。が、妹が毎日1時間
練習しているのをみて、何がそんなに楽しいものなのかと
興味を持ってしまったことはおぼえている。そしてオレは
ピアノをひけるようになるのではなく、自分のすきな曲がひけたら
それでよかった。ジブリからドビュッシー、ベートーヴェンまで、すきなものを選ぶ。
しかしオレは妹ほど熱心な人間ではなかったから、一日に30分。
かならず、練習することにしていた。もちろん子供時代のことだから
いや、いかなる時であっても、まったく練習なんて気にならない時もある。
しかし、希心会は厳しかった。決めたからには練習しないということを一切許さなかった。
反抗する手段も、知恵も、力もない、あの頃のオレは、とにかく一日30分やるほかなかったのである。
その結果、2年間ほどでショパンの幻想即興曲が弾けるようになった。これはそれなりに上手であるという
ひとつの証だったらしい。オレはその称号をもって、練習することをやめた。
当時は、音をきけば片手であれば弾けたのに、いまは何もできない。
練習したあらゆる曲は、暗譜していたはずなのに、いまは楽譜すら読めないのだから
おどろきだ。しかしこの後悔を当時のオレが予期することは不可能。
いま、マイケル・ナイマン、ヤン・ティルセン、フィリップ・グラスに出会い、何故
オレはあれすら弾けないのだろうと、そんなもやもやを、ときに思い出しては
いつかまたはじめようと、おもうのである。
しかしこのいつかという、まやかしの誓いが、大切なものを腐らせる。
大切なものとは、決意である。いつかなどという生やさしい言葉で、
決意をよそおっても、それは夢なのだ。
いつか、などこの世にはない。
いまか、それ以外しか存在しないのである。
3年前、オレは彼女に、こういった。
いつかまたピアノをはじめたい、そして英語を勉強して、古事記を読みたい。
その一年後、折に、同じことを彼女に言ったよ。そしたら、これは当たり前のことなんだが
彼女は、それ一年前にも言ってたよと、言われてみればそのとおりである。
この時、いつかは、今に変わった。
いつかは、行為なくして、いつか以外の何者に変わることもない。
いつかは、いつかである。どこまでもいっても夢のような何か。
やろう、とか、やってみたいと思っているとか、したいとか
その裏には、かならずこの言葉がつきまとう
何故、いましないのか?
しない理由はない、できない理由があれば、それはいつかではない。
もう、手をあわせて、いつかを待つのも、願うのも、おしまいにしよう。
いつかとか、難しそうだからとか、劣等感を武器に、いまと向きあうことから逃げたりしないで。
行為なくして、結果はない。人生は平等ではないのである。
抱えているものがあるのなら、劣っているのおもうのであれば
その分、行為に励むほかないのである。それ以外は、やさしさへの甘えか
不幸を盾にした、無意味な心の籠城である。弱者からの批難は簡単だが、何も救いはしない。
何か望むものがあるなら、いまと向き合うほかない。
たったそれだけのことが、こんなにもむずかしい









