And This Bitter Earth May Not Be So Bitter After All
久しぶりに、パソコンの前にゆっくり座って、心に淀んでいることを書き出すという
かねてよりオレの生活に馴染んでは心の平衡を保つ一助を担ってくれた、行為。
いまそれに浸かっている。もう数年も、ここに記しつづけているこの淀みというのは、
決して、追い出せるものなら追い出してしまいたい老廃物のような類ではなく、また
吐き出したい思い、口に出しても仕方のない嘆き、などではない。
書くことで安らぎはえられない。
ふと、友だちと話を交わしているとき、仕事をしているとき、どこかへ向かって歩いているとき
そういうわけもわからないタイミングで、心に去来したモノである。
一般的に考えれば、感傷に浸ることが、あふれる思いを言葉にするもっともな近道だと考えることが多いように思う。
そうかもしれないな、感傷に浸っているわけだから、溢れる思いもあるだろうが
生活の中で去来した、まったく出自のわからない正しさ、それを大切にすることが生活を大切にすることに通じている。とオレは考える。
これは、そのための行為。
こないだ、よく得体の知れない初対面といっても差し支えないような人と話していて
その人の、いわゆる愚痴をきいているときに、ふと突然、この人はいったい何故こんなことを
話しているんだろうという思いにとらわれた。いったい何を嘆いているのか?と。
オレは人が何か苦しんでいるとしたら、そしてそれを嘆いているのなら、それが見ず知らずの人間だろうが
親友だろうが、恋人だろうが、その人にとって最適だとおもう回答をする。残念ながら、ああそうだねと相槌を
うつだけの人間にはなれない。ときには、つらいことも言わなければいけないが、それは大切な相手に限る。
問題は、こちらがそういうつもりでも、中には嘆きながらどうする意志もない人間というのが中にはいるということ
そういう場合は会話が成り立たない。話をきいてくれる人がいる。という事が、彼や彼女には大事なんだと心から感じる。
オレにはそれがない。話すからには、目的がある。嘆くとしたら、それは事実を知ってほしいという一点や、助けを求める、
そういう確固たる目的がある。どんな回答をもらっても、ただひたすらに誰かの文句を言い続けるという行為が、人に話を聞いてもらう
という行為が、どうして心を癒してくれるのかがわからない。
いったい、話すことで心が癒え、現実が好転したらどんなに良いだろうか。
それで前をみることができるようになるなら、オレもあやかりたい。
これは勝手な意見だが、そういう、話をきいてもらえることで安らぐという人たちはやさしい。
少なくともやさしさとは何か知っている。
いや、やさしさのもたらす、安らぎみたいなものを幼い頃から知っている。
何がやさしさなのか、理屈で考えずとも、やさしさをうけることの心地よさ、これを知っている。
オレは子供の頃ですら、心地よいやさしさというのを、うける方法をしらなかった。
突発的に、意図せぬところで、まるで明日もわからぬ天気や、ふとした落し物のように
やさしさをうけることはあっても、こうしたらやさしさが与えられるという手段はなかった。
この嘆きの行為は、やさしさが与えられる方法を知っている幸福な人々が
それを与えられるためにおこなう、知恵なのだ。
知恵というものは、それをつかう器があって、はじめて人生におりてくる。
彼らは、器と知恵をもっている。オレはそれがうらやましい。
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